2008-04-14 国語記述模試
_ 国語記述模試
4月13日は、父の一周忌だった。墓前に集合した親族と祈りを捧げ、その後会食した。月日の経つのは速い。「光陰は百代の過客、浮世は夢幻」である。カイドウの咲き誇る頃父は逝った。
夕方帰宅後、最早花まで付け始めたホウレンソウを全部収穫して、サグチキンを作る。同時に、ブロッコリーが好きという来日中の妹のために、ブロッコリーも収穫して、サブジを作る。息子に手伝わせてプーリも揚げる。意外かもしれないが、私にはインド料理の心得がある。
明日より母と妹と伊豆へ小旅行だが、ゲラ持ちである。帰って水木と事務所で仕事をして、金曜から山陰へ飛ぶ。ウズラハウスのヒマはない。
前に日能研の記述模試について書きかけたが、これを含めて最近の(既定の)記述模試状況についての考察を書く。
日能研の記述模試は、約1600名を集めて行われた。3000円でおよそ500万集めたことになる。でもこれでは、制作費、人件費を考えると、収益はあまりに少ない。ご存知の通り、日能研は「模試での復習がすぐできるようにその場で機械採点してコピーを渡す「サービス」を行っている。
四角いアタマをコンクリで固める。顧客ニーズに合わせたレトリックを意識的に用いる。
しかし、この試験は「茶番」である。日能研は、「日能研でバツになっても一般私立の試験ではマルになることがある」と、暗に意図的に採点を辛くしていることを示唆する。これを聞くと、親たちは、「採点が厳しいと子どものためになる」と錯覚する。
どの塾でも記述模試で頭が痛いのは採点である。国語記述の採点には手間と能力が要る。忙しい選任講師を使うことはできない。ゆえに東大等の優秀君がバイトで採点することになる。でも、国語採点の驚くべきところは、「禅問答的正解答」を書くものが現れることである。これは通常の教師には採点できない。東大の採点官は採点できると私は踏む。というよりも、「おっ、これは!?」という答えが見つかったら、採点者同士で意見を交わして正否を決定すると思う。合格者の50人に一人以下の優れた記述解答を、想定模範解答を逸脱したからと言って×にするのでは本当に優秀な者を逃すことになる。そんなことをすれば未来型の法文書を作るものを得られない。ゆえに、出題者がうなる解答をするものはとても大切な存在なのである。私は体験的に知っている。真に優秀な生徒は若年にして教師をはるかに上回る解答を思いつく。
すると、もし日能研でバツを食らえば、その生徒は自分の能力に自信が持てなくて「愚鈍化」することになる。センター試験文科省教育と同様である。いやそれでもつぶされない強さが「本物」であろうが、純な子どもの中には、大人が自分よりアタマが悪いとは喝破できないものも多い。
日能研主催の一般センター試験でも同様のことが起こる。訳の分からない字数指定と、センスのない抽象語利用が義務づけられる。これも明らかに採点の労を少なくするためである。
このことは、サピや早稲アカ等の記述に絡む模試でも同様である。疲れて能力が低下した教師が採点しやすいように作るのであるから、優秀君は、眼が点になる。
日能研は当然このブログに眼を通しているだろうから、いつも通りすばやい対処をしようとするだろう。サピや早稲アカにはその「余力」も人材もあるまい。
偏差値だけに一喜一憂する親たちを「カモ」にする戦術(営業方針)は、今後も連続するだろうが、模試を利用して力をつける方法を示唆する私には頭が痛い問題である。結論から言えば、真の記述力は塾の授業や模試の復習では到底つかない。最近弁護士の相談が多いのはこの辺りを踏んでのことだろう。
麻布、武蔵、筑駒、などの入試問題を題材に、本当に力がある人間に直接学ぶしかないと思う。
以上些か日能研のためになってしまったが、すべて「冗談」で書いた。