2009-03-22 代作
_ 代作
前回代筆担当のタニが、春の花粉のせいか調子に乗り、先生のマネをし過ぎて、「伝わらない」として封印し続けて来た「冗談文学」を、至らぬ筆力で読者にかいま見させたことにより、先生の抱腹絶倒大逆鱗を食らい、即座に地方支部に更迭されましたので、代って今回からこのブログを担当することになった私ことイケダでございます。イケダの代作なんちゃって。以降どうぞよろしくお願いします。
大学で哲学を始めてすぐ気がついた。
それは哲学する時に用いる言語が究極真理を考察することに相応しくない不完全なものだということだった。
ヴィトゲンシュタインよろしく、哲学することはナンセンスなことなのである。
このことは禅の研究でも確認された。
そして、ラッセルの集合論や、ゲーデルの不完全性の証明を知った。
言語が不完全なものであることが分った時、我々はその言語をどう扱えば良いのか。
ヴィトゲンシュタインは、「沈黙」という。
一瞬目の前が真っ暗になったが、幸いなことにすぐ頭の中に灯が点った。
普通不完全なものと我々はまともに向き合わない。不完全なものとつき合う時我々は戯れの心で接する。だから言語でふざけることが正着なのだ。そうして言語の可能性を広げて行くことがこれからの哲学するものが第一に心がけるべきことなのだ、と。
ここで私は哲学と文学の境目を乗り越えようとしていた。
しかし、私がなかなか面白く書けたと思うものを友人に見せると、たいていしかめっ面して不愉快な顔になるのである。中には怒り出すものまでいて、私は密かに書かれたものの効果の手応えを感じたりしていた。不完全性への不可解と言うべきことだろうか。
言語は、火と同様、我々が扱う「道具」である。
火事で焼け死ぬのが不本意と同様、言語に支配され、それを自覚しないでいることは、誠に不本意なことであるはずである。
「知性」を表明するためには、同時にそこに「戯性」が含まれなければ不可能であることは集合論的「必然」である。儒教思想はこれを越えられない。やや論理性に欠ける。
私はまじめだからまじめなんですということは意味がないのだ。
私は冗談が分るから善人なんですという方が正しいと私は思う。
以上、「代作」した。