ブイネット教育相談事務所


2005-12-16 反省

_ 智者である隣人に礼申し上げる。

年甲斐もなく、自己の至らなさの痛感は心わびしい。

私は、生徒が大人を、そして教師を馬鹿にする対象とすることを禁じ得ないと思い、これを容認して来た。それよりも生徒が無意味に葛藤することを早期に解消することを優先した。

最近、生徒の一人が、内部進学絡みで素行が悪いと学校に評定された。教師への態度が悪いのである。

そもそも学力の問題の解決を目的に指導したこの生徒は、それが難なくクリアーされると、学校教師を見下すという挙に出た。

彼は学校の授業が退屈でならない。そしてそれを態度に現す。これを教師が咎めると、「抵抗」する。

私は、少なくとも自分が、日常生活不満で一杯の彼が、その解消のために教師を見下すことに協力した覚えがある。

常々自ら口にする様に、「一切の子供の行動には、親や社会の関与があると認めざるを得ない」という認識により、これまでの自分の指導法に責任があったと実直に思う。

この問題は、ある意味で、「無意味は容認されるべきか」という認識問題に拡大されようが、認識問題には結論が出ないので、規定の枠組みを遵守するものが正しいという社会的結論に至るのである。

しかし、言うまでもなく、人を馬鹿にした言動をはばからないことは非倫理的である。

この真理のもとに、私は生徒に謝罪しなければならない。

いかなる感情も持ちうるが、それを表現するか否かの見本は、彼より年長者にある。あまつさえ影響力のある教師にはなおさらである。

学校は言ったそうだ。

「塾の先生を選ぶ方はどうぞ遠慮なく他校を選んで下さい」

潔く生徒に頭を下げて、テキストを『福翁自伝』から『韓非子』に切り替えることにする。

最近出版物が増えて、私的な至らなさを補いきれなくなって来た。

「引退」という名のトンネル出口は前方にぽっかりと現象して来た。

著作の出版は、間違いなく著者を、不自由にする。

これだけは、知る人ぞ知る事実だ。

以後私は私的に自由な言動を意識的に抑制する。

自由に社会的制約があることを受け入れる。

つまり私は最早「アナキスト」ではない。

「私人」ではなく、「公人」として吠える。

畢竟、今の我が国の教育は全く誤っていると。