ブイネット教育相談事務所


2006-01-04 新年ー受験前一ヶ月

_ 毎年のことではあるが、受験稼業には新年は安らぎにならない。

仕事こそ休むが、頭の中は常に受験生のことで一杯である。

ここでかっ飛ばし偏差値10落差をブッ超えて付属校合格を目論む中3君。

4浪の末、今年こそなんとか引き当てたい医学部受験生。

志望校合格はするであろうがその先が全くおぼつかない学力の中3少女。

合格ラインには向かっているが、時間にひしひしと迫られる6年制私立女子脱藩希望中3女子。

クソ内申、この恨み晴らさでおくものか、上級都立校、有名大学付属校狙い中3少年。

なんとか帰国子女枠で国際コースに通りたい、アタマが半アメリカン中3少女。

親との対立で志望校の特待生を蹴らされた、都立狙いにされたの中3女子。

内心不足で都立上級校一発受験の中3君。

面接さえ何とかなれば合格の中3君。

地方優等生コースから、中心都市私立中学進学を目論む小6生。

芝中タッチ合格を狙う小6生。

慶応法を最低水準に東大文Ⅲ狙いの現役生。

あわよくば最低明治で決めたい、勉強逃亡癖18歳男。

青山狙いの遊び人社会人。

以上はこのところ定期に見ている受験生代表。

これだけいれば、誰かが必ずコケる。バタバタコケることもあり得ないことではない。

その数を最小にして行くのがここからの仕事。

しかし、機と気は確実にある。

それを超えるような、まるで怒濤の音のような雄叫びが僕は聞きたいのだ。


2006-01-06 イヌシロツアー

_ 12月初旬に名古屋へ行ったのは、ものが取り憑く質の家人が犬山城に行きたいと吠えだしたからである。

この城は、1537年に織田信康によって築かれた。別名白帝城という。

犬山は、上流の雨を一身にまとめた木曽川が、美濃の山縫ってドヒャッと濃尾平野に吹き出した大扇状地の入り口に位置し、城は、交互に両岸に現れる小高い山の間を流れるこの川の西側関ヶ原に向けた展望の地に建っているのである。

さて徒歩で登る。麓に針網神社という関東ではあまりなじみのない名前の神社がある。その神社の境内を通って石段を上り詰めると城門があり、さらに曲がって上ると、突然大空にこじんまりとしたしっかりした城が現れる。

私は驚いた。この山の上は超イヤシロである。鞍馬山の上に乗っかったときの気分に似ていると言えば分かりやすいだろうか。スカーンとしている。城の右隣に枯れかけた老木があったが、あたかも御神木であるかのようなたたずまい。何と驚いた。この城はイヤシロの上に建っているイヤシロシロなのであった。

登ってぶったまげた。その頑丈な作りにも驚かされるが、さらに驚かされるのが各階から見下ろされる景色の凄さなのである。そして第4層の最上階から開けた360度のパノラマはまさに筆舌に尽くしがたい。ゆえに李白で白帝城ということらしいのである。高校生の男の子達は元気に歩き回っていたが、正直言ってとても怖くて無理。勇気を出してやっとのことで半周廻るがもう半周はする気にはなれなかった。

建物に登ってこんなに怖かったのは、ハンガリー北部のエステルゴムの大聖堂の屋根に上った時以来のことである。何よりこの感覚は異常である。何かアタマがぶっ飛んだような気がする。ふと思いついて、出口で係の人に聞いた。

「この城ができる前には、ここには何があったんですか?」

「白山神社です」

「神社はどこへいったんですか?」

「白山にお返ししました」

「返す」というのはどういうことだろう。

神社のあるイヤシロを乗っ取って建てた城。イヤシロに違いないのだが何とも判然としない。

麓へおりると、さっきとは別の道に三光稲荷神社がある。 

近くの民俗資料館でまじめそうな係官に質問する。

「確かにもと白山神社があったのですが、武士の権力で・・・」

またしても関東の八幡神社と同じである。

源氏がやって来ると名前が八幡に変えられる。

いやその前だってそうだ。古代からのイヤシロがある。権力者がそこを奪う。自分の気に入った神を祀る。他ならぬ針綱神社も、城の主の成瀬氏が1650年に再度建立したものらしいが、拝む人はもとの山の上で拝みたかったことだろう。

神社よりも軍事的物見櫓兼緊急避難所。武力ってのは本当に凄いものですな。


2006-01-07 受験シリーズⅢ

_ 懈怠の心(サボリのココロ)は、一刹那のうちに到来する。

したがって、自己警戒を怠る習性から脱却できない衆人には、これを自覚することは不可能だ。

自らより、より知性に恵まれるものの脳内反応は、それより劣位のものには知覚できない。そこでは、想像することが唯一の手だてであり、そこにはほぼ無分別の敬意や信頼が伴う。

自らより、より感性鋭敏なものの脳内・身体反応は、それより劣位のものには感受できない。そこでは、想像することが唯一の手だてであり、そこにはほぼ直観的な崇敬や憧憬が伴う。

どのような知的好奇心も快感への希求も、自己の感官の内部内では満たされることはない。

過去の呪縛を捨て切った先にこそ、自己実体との遭遇の奇縁がある。

それまでの自分からは想像できないことができる自分。

それこそが目標とすべき最低最大限の境地だ。

そして、その悦びを噛み締めつつ、それに溺れることなく、自己の存在の最大限の可能性を欲求し続けること。

好奇心と感受性。

これ以上のメデイアは存在しない。

これ以外のことに、心を惑わすとき、

人は、自覚できぬ懈怠に身を任せる。

表現不能の「泥沼」に身を落とす。

永遠普遍の「法則」から逸脱する。


2006-01-12 受験前近況

_ 冬休み最後の週。4日間連続で朝から晩まで指導した。どの子ももっとじっくり見て差し上げたいが、いかんせん時間に限りがある。しっかりとした復習を心から願う。

こちらもフラフラである。頼りにされるのはありがたいが、頼りにしないで自分でできることこそが受験への勝利の道であるところが辛い。

生来気を抜くことを知らないのがいけないのであるが、いつでも気がつくと燃え上がって指導してしまう。他のボックスの先生たちも、終日我を忘れてまるで兵隊の様に熱心に指導している。

それにしても生徒たちは遠くから本当に良く通ってくれる。当方が電車に乗らないだけに頭が下がる。もし私に時間と体力があって、生徒たちの家を廻ってあげられればどんなにいいことかとも思う。その間の体力と時間を自己向上の学習時間に向けられたらどんなに良いかと思う。遠くから電車に乗って通って帰宅して、なおもすぐ机に向かって努力で

きる人間は稀だろう。後は、「頑張ってくれ!」と祈ることしかできない。

編集者と次の出版の打ち合わせの時間もない。本当は校正刷りを待っているが、今それががやって来ても、それを優先することはできない。多種の腹案も練るが、心と時間に余裕がないのでなかなかこれというアイデアには至らない。

こうして深夜、机に向かうと、そこには処理しなければならない文書が一杯ある。中でも締め切りが三日後の、今春から教えることになる大学のシラバス(学部指導要領)の原稿は、今晩にも仕上げなければ後がない。

それでも自分の時間がなければやっていられないので、アンリ・トロワイヤの『バルザック伝』(白水社刊行)を少し読む。私はこれまで人生の苦しいとき、いつもバルザックを読んで元気を取り戻して来た。債鬼に追われるバルザックは、パッシーの家で、午前零時に起きて、濃いコーヒーがぶ飲みで一晩中執筆し、早朝入浴朝食。すると校正原稿を持っ

て出版者の人間がやって来る。この原稿に、これでもかと筆を入れて約2倍にすると、午後は編集者と打ち合わせしつつ執筆。夕方からごく親しい人と食事。しこたま腹に詰め込んだ後、午後8時就寝。その4時間後の午前零時、召使いが起こして原稿開始と言った有様だ。しかし来年はバルザックが死んだ50歳に私も達する。文学作業よりは私の仕事の方がキツくないに決まっている。このことは私を慰めると同時に苛む。文学こそが全ての源だったのに、その文学を行う暇がない。これは信仰を忘れた宗教者に近い。


2006-01-13 北杜夫『高校生活』

_ 日経最終頁文化面の『私の履歴書』の、作家北杜夫氏の文章を楽しんで読んでいる。

戦中戦後期、麻布中学から旧制松本高校に学んだ氏は、旧制高校生になろうと努めたことを記述する。

「つまり学校の勉強はせず、自分を向上させるための読書に励んだ。」

自己向上のためではなく、学校の勉強のために本を読むものはバカにされるのである。

目から鱗とはこのことであろうか。これまで分かりかけていて何故か確信が持てないことが完全に了解された思いである。

私が必要以上の受験勉強に反対して、これを解決する学習法を考案して来たのはこのためだった。

暗記準備に時間がかかりすぎるセンター試験に大反対して来たのもこのためだった。

高校学習の予復習に時間がかかり過ぎない様に指導して来たのもこのためだった。

できるだけ通学に時間がかからない学校を勧めるのもこのためだった(通学中に読書する子も稀にはいたが、たいていはウォークマンでコミックスであった)。

私は生徒たちに自由時間を確保させたかった。十代ならではの経験をする時間を与えたかった。

ところが、この結果はスポーツ少年少女の山であった。彼らの顔は一様に浅黒く、身はスリムで引き締まっている。

分かるような気がする。都市環境で育った子供たちが思いっきり軀を動かしたいと感じるのはまさに動物的本能である。

しかし、彼らに欠けていたのは読書である。

読書するべき時間をメディア情報吸収の時間にとられてしまうのである。

諸君、私大文学部三年遅れ卒業の今の私を支えるのは若き日の読書と思索である。


2006-01-14 受験と読書

_ 私の国語指導法の要は実は読書指導である。私の机の脇には常に数十冊の本があって、生徒との話題上、「今だ!」と思える瞬間にこれを投げつける。生徒のほとんどがこれを読む。ハマるものもいる。しかし悲しいことに、そこから自分で本屋に足を運んで本を選ぶ習慣に結びつかない。仕方がないので本屋に引っ張って行って、文庫本を選んで買ってや

る。プラトン、ロシェフコー、中村元・・・・数えきれない。何百冊買ったか分からない。特に岩波からは感謝状をもらいたいくらいだ。ついでに、「あのな、図書券くれってせがまれて喜ばない親や老人はいないぜ。ただしマンガじゃなくって本が買いたいと言うんだぜ。」と言ってやる。

私見であるが、各種推薦入試で大学が見るのは読書の分量と記述力である。両者とも前者が前提になることは明らかだ。そしてまた、実際の入試でも、特に文系においては、全ての教科の学習でしっかりした読書力を前提にできるものは確実に勝利をつかむ。事実東大文3の学生はそもそもの読書好きが多い。そして大人になった時、この若き日の読書に感謝しないものはまずいないことだろう。若き日の読書ほどアタマを鍛えるものはない。逆に、読書しないものは歳を経るほどに必ず後悔の念に襲われるのだ。

この読書の時間を奪うのが現代の受験勉強である。

これは間違いなく、学生運動にショックを受けた当局が、反政府的発想を持ちうる知識人にできるだけ最高学歴を与えない様にと目論んだ当時の行政トップの究極の政策であった。読書を禁ずること。そうすれば、批判的思考を持つ知識人を減らすことができる。少なくとも国立大学からはできるだけ排除することができる。この政策を提言した官僚は、まさに「悪魔」であり、「売国奴」であろう。国の文化的未来を全く顧慮できない者たちである。

高校時代、受験参考書しか読まなかった者、果たしてこの人たちが一流大学へ進学するのは意味があることなのだろうか。批判的思考が培われないということは、本質的な倫理観がないということであり、そういった者が国家のトップに多くなれば、当然国は崩壊へ向かう。この象徴が、官民癒着と「天下り」なのであろう。官僚、政治家、マスコミ関係者、堀江、村上、もちろん一概にはいえないが、最近の東大出身者で活躍する者は、悪人の方が多いのではなかろうか。


2006-01-15 最低点法極意

_ 点を取ることだけが目標と化した勉強のつまらないことは、「最低点法」を掲げる私の逆説的確信である。「最低点法」は、受験校の教師と向かい合う遊びによって己の知力を高めるゲリラ正当学習法である。そこには特定対戦者に自主的に戦いを挑む含みがある。つまり、多対1の勝負ではなくて、出題者対自分の勝負に変換することがこの方の極意なのである。相手を想定しない戦いでは「試験」に過ぎずオモロうない。過去問研究により相手を想定してゆくからこそミステーリーに挑むのと同様の醍醐味がある。しかも受験者は、自分ではない走者の馬券を買う行為ではなく、自ら走る完全なギャンブラーなのである。

いかなることにも100%ということはない。だからこそ「勝負」がある。勝負に向けての自己鍛錬があるのである。

偏差値信仰を完全に嘲笑おうとする戦術が最低点法なのである。盲目的努力よりも知力と集中力が上回ることを証明しようとするのだ。

最低点法の極意は、出題者を想定することであり。ただひたすらこれと対峙することである。


2006-01-16 少子高齢化社会の極意

_ 少子高齢化社会とは、とどのつまり、万人皆生涯現役ということである。

生きている限り働いていなければならない。

家族や社会のために尽くしていなければならない。

また、少なくとも不慮の病に襲われない限り、最後まで身の回りのことは自分でやり、他者に迷惑をかけない心がけが大切である。

数の少ない若い者の負担を減らす姿勢が大切である。

ここにこそ、健康の本質的重要性があろう。

そしてそれには自己を抑制し続ける精神力が必要であろう。

生涯現役であるためには、自己健康の管理が欠かせない。

意思と体力さえあれば、何らかの形で社会に貢献できる。

体力以外に、周囲の役に立つためには、できたら

「特技」が欲しい。

創造性、良い趣味、自己表現力、コミュニケーション能力。これらは幼児期、少年期にこそ培われる。勉強では培われない。これらの獲得には、好奇心と意思の力が必要であろう。

最低でも、優しさと話の面白さがあれば周囲の役に立つことができる。

そのためには日常生活にオモロい観察や体験がなければならない。

しょせん生命体の存在理由は、種の保存に寄与することであり、その環境を害さないことである。

縄文人から同じ。人は働いて働いて働き続けて、自ら身の回りのことができなくなった瞬間に死ぬのが幸せだ。

生涯や疾患がない限り、人は活動し続けなければならない。

この観点に立ったとき、初めて人は、ニートや引きこもり、そして鬱病を客観化することができるのであろう。


2006-01-17 東大総長

_ 日経新聞夕刊に、東大総長小宮山宏氏の『東大よ動け、日本よ動け』が連載されているが、「東大を世界一の大学にする」という飽くことなき権威追求願望が語られるだけで、相変わらず東大がこれまでやって来たことの自己批判は全くない。

なぜ今頃このような記事が出るのか。それは、末期に至った学校が、生徒アンケートをとるのと同様の理由だと私は見る。また、日経幹部が東大に頼まれたとしかいいようがない。

東大は危ないのだ。小学生からひたすら点だけを追い続けた者が多く入学し、優秀な人材が不足して来ているのだ。トップがこのようなつまらぬ発想しかできないのであるから、それも当たり前というべきかもしれない。

このことは他の一流大学でも定番化しているが、大きく変わろうとする時代に創造性のない人材は役に立たない。

問題は試験システムにあると、かねがね私は主張して来た。暗記を重視すれば、思考力や発想力のない者が多く成長する。我が国を未曾有の困難に陥れた東条英機は暗記の天才であった。好奇心に基づかない学習は、権威指向の人間を多出させる。大切なところで的確な判断することができない人間、未来を見据えたビジョンを持てない人材、これらは暗記偏重の教育によって生まれる。

この項について詳しく読みたい人は、小生執筆、サンケイ新聞論壇誌「正論」2月号の『ドラゴン桜の罠』をご参照いただきたい。


2006-01-18 ライブドア強制捜査

_ 各紙報道によると、株価つり上げのために虚偽の事実を公表した(証券取締法違反)疑いで、ライブドアが強制捜査を受けたとのことである。

私は、堀江氏や村上氏が、人々が地道にまじめに仕事をする気を奪うという理由で好ましく思っていない。しかしそれは、それ以前の企業人が、当然の様にやって来たことだとも思う。資本主義社会の究極の営為が、弱肉強食、他者に損害を与えて自己が利潤をあげるというところに行き着くのは必然のことだろう。「競争原理」と言っているうちはまだ いいが、最後はこうなることは目に見えていることだったと言うべきかもしれない。ここには自らの自由が、妄りに他者の境遇を害さないことの上に成立しているという不文律に対する無知の蔓延が現れる。

「他者が騙そうとするのであるから、自分も騙す側に廻らなければまず儲からない。」

これは多くの人が行き着く結論であり、今では多くの人が個人投資家としてデスクトップの株式情報に目を光らせざるを得ない状況のようである。

より高所から覧れば、世間の人を騙すためにまず必要なことはメデイアを押さえることである。

そして、世間の人から直接金を受け取るために必要なことは、銀行と証券会社を押さえることである。

事実彼らはその獲得に向けて邁進して来た。

そして、その資本の出所が、外資系の資本であったことはすでにはっきりしている。

その理由は、我が国では、法律により、外資系がテレビ局を握ることはできないからであろう。

今になって、一年以上前のことを取り上げて強制捜査するのは、検察がこれを狙ったからであり、検察が狙ったということは上層部がこれを指示したからである。この背後にはもっと大きな告発が待ち構えていると思う。

私は勘ぐる。

この日はヒューザーの小嶋社長が証人喚問される日である。かろうじて朝日の社会面に出たが、実は、ヒューザーの分譲マンションの販売業務を担っていたのは、元国土庁長官の伊藤公介氏の次男らが参加する「ヒューチャービジネスネットワーク」と「融創国際」であり、伊藤氏はバリバリの森派議員である。しかもこの日は、阪神大震災11年目に当たる日である。阪神震災後、建築基準が厳しくなり、それ以降に建てられた物件だけが問題にされていることは周知の事実である。

案の定、ライブドアに関する新聞記述はつけ刃的であり、無理に紙面をそちらにとろうとしているかの様に、無意味なインタビューを多く載せたりしている。

これは偶然のことだろうか。お金のことを考えれば、マンションの耐震構造問題は、ライブドアの件より遥かに重い。下手をすると、多くの建設会社が倒産せざるを得ない。そうなると、1兆円以上の資金の投入が必要になる。

バブルを引き起こした主因の融資を行った各種銀行への多額の国家資金の投入は、まだ記憶に新しい。我々はこれによって、未曾有の負債を負うことになった。そして、その負債の担保であった郵貯の民営化である。我々は小泉首相が大蔵族である事実を絶対に忘れてはならない。

堀江や村上のやっていることは、社会的に見て明らかに悪いことであるが、それをここまで容認して来ざるを得なかった「先達」たちの有り様は永遠に問われそうにない。


2006-01-19 宮崎勤死刑判決

_ 89年に連続少女誘拐事件が起き、宮崎勤被告が逮捕されたとき、私は二つの大きな理由からこの事件に大きな関心を持った。

その理由は、すでに教育カウンセラーとしての活動を始めていた私には、事件が「典型的なもの」として了解されたことであり、また同時に長女が90年に生まれて、幼女を持つ親として身につまされたからである。

そもそも私は、文学活動をする経済的支えとして、家庭教師・教育相談を生業をしているものであり、その私からすれば事件はかなり分かりやすいものであったのだ。私は、宮崎勤の家庭環境を分析して、そこに、教育上の大きな問題要素が、類い稀なほど折り重なっていることを確認した。

_ 1 ワンマン経営者の家

2 長時間のテレビモニター接触

3 理不尽に長い通学時間

4 古い形の父権家庭と夫婦の会話の不在

5 学歴を第一とする狭い価値観

6 落ちこぼれた場合のケアの不足

7 テレビをよく見る老人との同居

8 長男乃至は家庭内唯一の男子

10 女性とのコミュニケーションの不在

11 有効な自己表現手段の欠如

_ 数え上げると、通常2つ以上重なると「問題がある」と判断できる要素が30以上重なるという稀なケースであることが判明した。このことはそれ以降の残虐犯罪においても確認され続けた。

私は、佐木隆三氏が『宮崎勤裁判』で、「宮崎勤よ、キミはいったい何者なのだ」と叫ぶのを読んで、これに答えられるのは自分しかいないと思い、開発したばかりの抽象構成法を用いて小説化した。私はこの作品によって小説家デビューできると信じて疑わなかったが、発表は叶わなかった。

今にして思えば、その後の同類の事件を目にするたびに、あのときの私の作品が読まれていればと残念に思うが、あのときは無名、今も専門の学者ではないから無視されて当然といえば当然であった。

しかし、この事件の分析と考察結果は、その後の私の教育相談における大きな柱となった。私は忌まわしい少年犯罪事件が起こる度に、「ああまたか」と感ぜざるを得なかった。

この事件で死刑に処されるべきは、彼の父親であったが、父親は自ら奥多摩の橋の上から多摩川に飛び込んで他界した。私は、この男も最後までその理由を解明できなかったであろうと思った。

その後、おおよそ10年を経て2000年に、吉岡忍氏の『M 世界の、憂鬱な先端』が出て、私はその綿密な取材と分析に驚かされたが、そこには私の考察したいくつかの要素が欠落していた。分かるわけがない。このことが分かるのは、私の様に個々のご家庭とお子さんと長期間連続的に接する経験がある者のみであろう。

最高裁判決は当然死刑であるが、もし人を2人以上殺した場合がそれに該当するという一般的判例からすれば、実は彼の罪は無期懲役以下なのである。

彼は狂人である。しかし、私の考察によれば、彼が完全に狂人になったのは、一人目の少女を殺した瞬間である。したがって、それ以降は、精神異常者の犯行なのである。

この事件は、世の精神鑑定・分析が無能に近いことも明らかにした。専門家は、新しい事例に対処できなかった。そしてその結果が、その後の犯罪の発生を許して来たと、私は確信する。つまり、いたいけな少女たちの死は、世間に恐怖を植え付けたこと以外に活かされることがなかったのである。

今からでも遅くないと思う。我々の社会は、宮崎を生存させその心理を調べ続け、狂気と犯行の理由を明らかにするために役立てるべきだと思う。もしそれが、あの事件の直後に明らかにされていれば、その後の凶悪事件の多くが発生しなかったはずだと私は考えるのである。

私の小説中では、犠牲となった少女たちは、そのことを明らかにするために派遣され、自ら犠牲となって警告した「天使」として扱われた。


2006-01-20 方言と標準語

_ 相変わらず京阪神からの教育相談のアクセスが多い。週に一件以上のご相談である。もちろん多忙を理由に、面会は3月以降にお願いしているが、それにしてもこう関西の人からアクセスが多いと不思議な気分にならざるを得ない。

昔、高校時代の親友の一人に兵庫県出身者がいて、その人物に、

「松永、おまえは関西に行け。おまえのメッチャオモロいニュワンスは関西人でないと分からない。おまえは関西に行けば絶対にモテる。」

と、繰り返し言われた覚えがある。

事実私は関西弁が大好きで、関西人に会うと無理にこれを使おうとして笑われたことが多い。源氏物語の関西なまり読みはお手の物である。

私は、我が国の言語了解能力が劣ったことの最大の原因は標準語の強制だと思っている。

標準語は、意味は的確に伝わるが、背後のニュワンスがほとんど表現できない。

東京生まれの私は、方言を第一言語として所有する人をつくづく羨ましいと思って来た。

標準語は、近代的法制を敷くための布石であり、フランスでも近代化にあたり、数多くの方言が失われたと聞いている。

今私の本が世に出ると、驚くほど多くの賛同者が関西から現れる。

関東の人は、ダイアローグの意味が分からないと言って来るが、関西の人は、「目から鱗」と言って下さる。このことは東京人の言語感性が硬直していることを暗示する。

でも、私は方言不在の人に、最強のメソッドを提示して来た。

言うまでもなくそれは、超古代語のカタカムナの音読法である。

どうもこの春は関西に出かけることになりそうだ。


2006-01-23 THE 職人

_ 多忙中で温泉ばかり想像するのもどをも?ってわけで、寒中風邪を警戒しつつ文化を求めて都心に出て、大江戸麻布十番六本木5丁目のアトリエで、劇団「無=魂」の第8回公演『THE 職人』を観た。

今日は金曜日三日目。話は、元ヤンキー親方主催する飯島塗装が、発注工事敢行する中で、リーダー竜が、時代に取り残された愚直誠実な田舎青年職人志望者(驚くべき入魂役作り)と、不法滞在4年超の苦労人だが希望に燃える中国人(これは中国人さえ笑って靖国を許せるほどのキャラクター作り)と、シンナー中毒の金髪君だが妙に覚醒している若者(これも信じられないほどリアルな役作り)が、そこにヤンキー絡みの懲役上がり人(これは可笑しいくらい橋本龍太郎に似ている、実は最もやりたくないことをさせられている格好をつければつけるほど時代に取り残される苦痛顔)を交えて、中国人逮捕の不条理を含みながら、「お味噌」ならぬ「あんこ」の味を漂わせて、古い日本の男たちが、ただただ飯食う種の職人技術を問いかけながら、全く女にモテねえ世界で、それでも男は前向きに生きて行く、ともに肩を支えあいながら、という、脚本家の現場絡みの体験がなければできねえというもので、一つ一つの役者自身のキャラクター作りがこりに凝った大人向けの芝居なのです。欠点は、役者の修練と技量が脚本を上回ってしまうことで、もっと笑えるものが妙に肛門抑制の利いた感じの出来上がりになっているところが惜しいところです。しかしながら、文学的な構成能力の観点から観れば、そこには「取りこぼし」と言ったものは観られません。看護婦や銀座ホステスや仲居の世界におけるレズビアンヒエラルキーと逆の世界。それが過去の産物性を引きずりながらもなおも現象することの可笑しさ。ホモセクシャルなジョークが一点だけ入ったところが、この作者の抽象絵画的な文学的無矛盾性を確認させると思います。このことは、充分な音楽的選曲の効果に勝って、照明技術の秀逸さに現れていました。役者、演出家、スタッフ、これらが充実しているのに、その技量に一段上の脚本が得られないところがこの劇団の「悲劇」です。もっと歌舞伎みたいに思いっきり大げさにやる場面があっても良かったのに。ものすごく流行っている活気に満ちた寿司屋のカウンターで感じる不充分。モリエールにあって、他の演劇にはない何か、どうして彼らはもっと可笑しいことがやれるはずなのに「抑制」せざるを得ないのか。

しかしこれほどのものはテレビドラマで観られなくなってすでに久しい。やっぱりビールと芝居はナマがいい。絶対に後悔しない水準。ただし完全男優劇。

連絡先:www.mu-kon.jp/六本木アトリエフォンテーヌ:3583−9829。


2006-01-24 国語指導

_ ブログだからつい書いてしまうが、毎日朝から晩まで入試国語指導は本当に嫌になる。

一人目:大学付属高校入試問題得点術

二人目:慶応文小論文対策指導

三人目:早大学院作文指導

四人目:高校入試選択肢得点法

うんざりする。そこには、センスのない知識人の文章のオンパレードがある。

名文は出題されない。

ええっ、芥川を出せって言うんだ。谷崎はどうした?中上は、鴎外は?変態川端や三島、井伏でもいい。センター古文だって木下長嘯子かよ。馬琴や秋成を出してからにしろって言うんだ。

出題者の問題制作上の都合から選ばれる、限りなくエセに近い知識人の文章。まるで教科書の様に読む甲斐のない文章が、セコい選択肢読み取り問題に活用される。

お前たちは馬鹿さ。恥を知らぬ国語教師たちさ。どうして堂々と名文を選んで出題しないのか。著作権と利権、乃至は社会的妥協に縁故関係。日常不味いパン屋のパンは買わないし食わないのにどうして繰り返し美味しくないパンを食べなければならないのだ。感受性のない国語教師がそれに無自覚なのは最早堪え難い。

私はそもそも、英語教師からスタートした。短期に英語得点力を上げる教師としてスタートした。そのうち、内申全教科をとらせる教師になる必要が生じた。実は数学は得意教科だった。しかし、唯一の苦手は何と国語だった。だから国語の得点術を考案した。すると、その得点術を活かすためには、まず音読、そしてその完成には文章記述力が必要だと 思い至った。

てなことをしていると、世の中に国語教師というものが圧倒的に不足していることが分かった。つまり国語教師になれればこの業界で食いっぱぐれがないのであった。

誰でも、受験する学校のほとんどのテストで65%以上得点する方法。この開発は意外と容易かった。しかし、今私が欲しいのは75%以上得点する方法である。これは難しい。25%しか落とせない。それには、知識問題での失点以外のところはほぼ全勝でなければならない。しかし、それには本当に国語ができなければならない。それにはベースに良い文章の音読がなければならない。しかし、入試問題は一度読むだけの価値しかないものがほとんどである。もし誰でも75%以上得点する方法を開発すれば私は向こう10年以上現職を続けることができる。今、その方法を考えている。


2006-01-28 堀江社長逮捕

_ 自慢ではないがこれまでこのブログにレスは完全にゼロである。逮捕された堀江氏のブログにはレスが一晩で2500件あった。堀江氏の関係会社がここ数日間で被った損失は6000億円だそうだが、私にはその10000分の1の家を買うお金が一銭もない。堀江氏が私の倍忙しいとは思われない。しかし、そもそも読者の少ないこのブログは、ライブドアを使ってもいることだし、そろそろ止めた方がいいのかもしれない。

特定個人を相手にする私には、まるでマッサージ師の様に時間給が付いてまわる。それだって事務所経費と生活費と税金と(消費税上納も)各種保険を引けば残りは限りなくゼロに近い。土地も株式も所有したことがない。だからバブル崩壊は自分には全く関係のない世界だった。

しかし、私には身を拘束される可能性がない。

貧しいことは馬鹿ではなくて善人の象徴である。

私は子供の頃、商事会社勤務の父親が語った、「結局儲けるためには悪いことをしなければ無理なんだよ」という言葉が忘れられない。

ダマさないと、余分にお金をとらないと、確かに生活は楽にならないのである。

しかし、それでも余分な金が溜まるようなことはないだろう。

そのことは、自分が使わないうちに家族が使ってしまうことからも分かる。

しかし私は一匹狼。

一匹狼を育てることはできても一匹狼を雇うことはできない。

小泉氏の靖国参拝同様、堀江氏の逮捕は、まるで阪神タイガースの優勝の様に私には関係がない。

堀江氏の罪は、自己の資本主義的合理性を追求するあまり、分かってはいながら、つい自分の顧客の一部をダマすことによって利潤をあげることをGO!としてしまったことである。

詐欺は、罪が確定した場合、量刑が重い。ホリエは文。(法学部)を中退するべきだった。確定した詐欺罪には過失の可能性がゼロである。故に論理的には「情状酌量」はあり得ない。つまり、ほぼ求刑通りに刑が確定する可能性が高い。

証券のインサイダー取引ですら罪に該当することを堀江氏は知っていただろう。日本放送を締め上げているとき、ちょうどその背後で株式分割資金倍増の流れが続いていた。彼は本当に金がすべてを決定すると思っていたのだろうか。いや私はそうは思わない。彼は逆に、金がすべてを決定する様に思われる世の中に反抗していたのではあるまいか。彼はマルクスを読んだであろうか。おそらくそれはNoである。彼やヒューザーをそこまで駆り立てた資本主義的心理とはなんなのか。やがて文学やジャーナリズムはこのことを明らかにするであろうが、それは実は考えられないくらい幼稚で下らない野望なのではないのか。そしてテレビ以上に人をダマすことがネットの世界ではいよいよ容易いのではないか。

でも堀江が一種の現代的英雄であったことは否定できない。

彼は贅沢や女が象徴する願望を極めた。そしてそれが自分だけのつまらぬものであることを世間に分からしめた。一切の流布された風説に踊らされるものは究極(きわめてホリエ的には)オオカミに喰われる赤頭巾であり、ダマされることが愚かなのである。いよいよ倫理とは、判断力のことを意味するようだ。そして、教育はダマされないようにするためにある。

結局堀江君の求めたものはなんだっただろうか。彼は意外と東大出身者らしく、リアルな未来イメージは持たなかったのではなかろうか。金と女を得ること、有名になること、人に受けること、そもそもそれだけで満足のはずである。彼は充分に存在を示すことに成功した。「平成堀江騒動」として歴史にも名を残した。しかも彼が損をさせたのは値上がりを期待して彼の株に投票したものだけである。直接的には一人の死者も出していない。今彼は楽しく生きることを考える。もう一度「人生の扉」だ。出獄後、結婚して子供を作ろうと想う。ここで教育コンサルタントの私としての予想は、その女の選び方に失敗して人生最大の辛酸を味わう・・・。しなければやらなければならないことが沢山あるのにまた人の読みもしないブログをだらだらと書いてしまった。


2006-01-29 受験シリーズⅣ

_ いよいよ受験が迫って来た。すでに推薦入試で決めた諸君もある。

しかし、本番は、やはり一般入試。

自分で自分の「馬券」を買って、自分で疾走する。

人の人生、こんなにオモロいことが滅多にあろうか。

受験が近くなっていよいよ学習目標が絞られて来ると、当然行き詰まりが起こる。

肉体的に現れるもの、精神的に現れるもの。そこには多種多様の内面から来る抵抗と、外部からの誘発が折り重なる。

しっかりした未来目的のあるものは強い。

しかし、普通多くのものはそんな視点は持ち得ない。

すると大切なのは知恵の完成の真理追求になる。

合否なぞ、細かいことにこだわっているから、限界が現れるのだ。

大切なのは、この急流を泳ぎ切ろうとする信念と気合いである。

あたかも蛇がその皮を捨て去る様に、これまでの己を捨て去ること。

自己の成長の飽くことなき追求。

自覚的な自己向上の確信。

このことが体得されれば、入試の合否は遥かにレベルの低い観点上にある。

そして、この様に自己の向上に際限なく好奇心と努力を注ぐものに、周囲のものにとってはあたかも偶然のごとく必然に、勝利の道が開けるのだ。

勝つものも負けるものもない。

ただ自己の成長に邁進すること、それが学習の真理なのだ。

つまらない志に拘泥するものは、この至誠に勝ることはできまい。

つまり、そこには「己」以外に敵はない。

各人、鋭意奮闘努力持続実行せよ。

これを恐れるものは、永遠に同一軌道線上を巡航する。


2006-01-30 旧暦正月Miniイヤシロツアー

_ 新月は29日23時15分。だから28日24時は、旧暦大晦日=新年と言うことになる。

てなわけで、28日夜9時より波動調整行動開始。同伴者は中3高校受験生。

先ず、赤堤通りから、経堂→宮坂へ。

世田谷八幡参拝。本殿右脇手前にイヤシロチ。

次は豪徳寺。これはお寺だから夜は入れない。

淡島通りから池尻駒場へ。

第2志望校前、必勝を誓う。何そう大したものではない。この塀の向こうへ入ってやるぞくらいの確認。

生徒曰く。

「この学校は受けないと思いますよ。第一志望の発表の後だから。」

「・・・・・!」

ついでに、筑波大付属駒場見学。

校門がわずかに開いている。

おちゃらけ侵入帰還。

旧制高校の匂い。

次は三宿神社。これも丘の上のイヤシロチ。かろうじて御神木が支える。なかなかいいスポットだ。

三宿の異次元ライブスポットで年越し。

紹介されて、突然のカタカムナ音読。

こうして旧暦新年、第一志望校のK大付属校につく。Kは「慶応」ではない。

生徒に4月以降内部を歩いている自分を祈念させる。

我々は何としてもこの学校に合格したい。

各教科60点を切らない勉強をする約束をする。

いずれにせよ、後2週間、勝敗は決す。

15分で吉祥寺帰着。

旧暦正月は朝10時から授業開始。


2006-01-31 中学受験本番

_ いよいよ明日より中学受験の本番が始まる。

幼い生徒諸君が小さな胸を張りつめらせて受験に望む姿は、私にとって、いつになっても見慣れる姿にはならない。

頑張って欲しい。明日は雨かもしれない。

注意して欲しい。明日はまだ月の引力が近い。

勝負をかけるなら、最初の二日だ。

持続力のあるものは後半戦も踏ん張るべきだ。

要は、いつも語る通り、山菜採り合戦、イス取り競争、滑り込み悠々セーフ。

誰が単一時間内に手早く他の者よりも充分にカゴを一杯にするかということだ。

全教科65%以上取れば絶対に受かる。

力の足りない者には偶然以上の現象。

ギリギリ間に合った者は、「仕事」でやって欲しい。

大きな失策なく自己の最大限をぶつけることができた手応え。

その体験こそが諸君の未来判断の元になる。

だから、逃げたりいい加減にやったら何の意味もない。

「天よ、思いのままに雨を降らせよ」という心境が大切だ。

人事は尽きた。その感触で最大限に現象せよ。

真に賢くなる瞬間。

それが入試現場だ。

「勝負!」を忘れてはならない。