2005-12-28 見殺し
_ いささかブラックだが、私には「見殺しの松永」という隠れたあだ名がある。
これは、高校時代に、ある友人たちの行動分析をして見せて、「まず悪い状態に収束する」と予言し、実際そうなることが重なるうち、「ではどうして前もってそのことを伝えないのか。そうしないことは人間として不親切になるのではないか」と問われて、「そんなこと今の本人に言っても通じるわけがない。それに、もし万が一僕が間違っていたとするなら、彼にすまないことをしたことになるではないか。大きなお世話だろう。ただ見ているしかないさ。ただ僕が気がつくのが少しばかり早いだけさ。誰も気づかないんだからあえて教えてやらなくとも罪はないではないか。」と言った覚えがある。ここには前提として、やや鋭利な人間観察力がある。
この能力が教育カウンセラーの仕事に大いに役立ったことは言うまでもない。しかし、今度は違う。クビになるのを覚悟であえてそれを口にするのが仕事なのだ。これはほぼ9割以上受け入れられて来たが、場合によっては了承しない人たちが出る。面白いことは、超高学歴者は、ほとんどが受け入れることである。その理由を考えると面白いが、長くなるからここでは止しておく。
私は「絶対」ではない。それどころか多くのミスも犯す。だが、教育相談を私ほど長い間やって来たものがまずいないことも事実であろう。事実、過去において私のアドバイスに従わなかったために、大失敗したケースが少なからずあった。また、稀ではあるが、この逆にご家庭の判断が正しいこともあった。そしてこのことがまた私の判断基準になる。
子供の健全な成長、健全な親子関係を無視して、ただ受験だけの成功を第一義にする親は、言うまでもなく愚かである。最早にっちもさっちもいかなくなった修復不能直前の状態で、再度相談に来た人のいかに多いことか。世の中には失敗しないと分からない人たちがいるのだ。私自身を含めて。
世の中は不思議である。経験豊富な医者の言うことには耳を傾けるが、教育コンサルタントの意見には耳を傾けないのである。私はこのことを察知すると、高校時代同様、クライアントにやりたい様に任せる。望まれれば最終的なフォローを行うが、元のレベルを回復することは当然不可能だ。
私は学校の先生ではない。教育相談の専門家である。クライアントの皆様の完全な「味方」である。だからできるだけ親身になろうとするが、真のプライバシーにはその人独自に決定したイメージの世界がある。そのイメージに基づく追求と経験はその当人の勝手である。これは誰もが行う一種の博打であって、他者はその馬が絶対に来ないことが察せられてもそれを口にするべきではない。
私自身は、私にアドバイスしてくれる人を、「親切」だと認識し、できるだけ大切にしたいと思う。他者がわざわざ口にしてくれる意見を参考にすること、それは人間生活上の極意でもあろう。