2006-07-20 現状学校教育実情<連載2>
_ 現状学校教育実情<連載2>
一冊の本に書くべきことを、このブログの読者諸兄にお伝えするために書くこと、光栄に思う。書き手にとって、真面目な読者に恵まれることは大いなる悦びである。
本欄では、なぜ我が国の教育が改善されないのかを明らかにし、その上で、できればその解決のためにはどのような認識が必要であるかを表明して行きたい。
_ 筆者は、高校時代にご多分漏れず思春期ノイローゼになり、その自己解決のために哲学科進学を志したが、2年浪人しても私の学びたい哲学を教えてくれそうな国立大学に合格できず、私立の慶応義塾大学文学部に進学した。1977年のことである。
ここで私は3つの不思議な事態に遭遇した。まず、私学とはいえ、一応最難関の文学部に、ごく一部を除いて優れた指導者がほとんど見当たらなかったことである。特に、50前後の助教授連中はひどかった。「文学部唯野教授」、学者として尊敬できる人は、やけに高齢な人たちに限られた。後は、専門分野を研究することによる人間的な輝きや高度な精神性が見られないものばかりだった。どうして入学試験が難しいのか全く不思議に思ったものだった。別の学校に進学した高校時代の友人たちに確認すると、ほぼ同様の答えが返って来た。
次に、驚いたのは同級生たちだった。文学部というのに、バルザックやドストエフスキーはおろか、スタンダールすら読んだことがない人間がほとんどだった。哲学書に至ってはほとんどの全ての学生が読んだことがなかった。本を読んだことがないものが文学部に集まること、不思議としか言いようがなかった。私は高校後半から読書にはまり、浪人中は2日に一冊の割合で読書し、文学部に入学すれば同様の友人に多数恵まれて大好きな文学議論が展開できると大いに期待していたので、スタンダールの名前すら知らない者にも驚いたが、「文学史でやらなかったの?」という発言に至っては心底幻滅したものだった。
3つ目は、現役で入学した優秀な女子学生たちのつまらなさである。この人たちは、まるで小鳥がさえずるように英文を読み、これを見事に直訳する力があったが、背後に表現されるものを読み取ることができないものばかりだった。彼らは、文学作品上の「嫉妬」とか「皮肉」を読み取ることが全くできないようであった。また彼らの多くは芸術鑑賞の能力がほとんどなかった。作曲家の名前などは良く知っているのであるが、モーツアルトですら心から楽しむことはできないようであった。彼らにしてみれば、「モーツアルトであるから良いものである」のであり、「快感を与えるものが結果的にモーツアルトである」ということはなかった。例外は、慶応女子校からワグネルソサイエティーに入部した人たちで、この人たちは輝かしい高嶺の花に感じられた。反面外部から厳しい入試を突破して入学したものたちにはそういう素養がある女性はほとんどいなかった。また、外部受験者たちは、自律神経的に病んでいるものが少なからず見受けられ、このことも不思議に思ったものだった。
つまり、この文学部に外部から入学したものたちは、勉強はできるが芸術や文学に疎いものたちばかりだったのである。このことは上智大学でも同様で、唯一違うのが早稲田の男子学生の一部だったと記憶する。早稲田には女子の付属校がなかった。私は高学歴の女性たちは知識は豊富でも感受性が乏しいものが実に多いことを観察した。しかも彼らはプライドだけは妙に高いのであった。つまり、知識はあるのに感受性に劣ることに自覚的ではなかったのである。私は実に不思議に思った。私は今日に至るまで感受性のない女性に魅力を感じることはできない。オモロい男の友人に恵まれた自分にとって、女性とおつきあいする悦びは男性にはない感受性の強さに驚かされることだけだった。