ブイネット教育相談事務所


2006-07-24 現状学校教育実情<連載4>

_ 現状学校教育実情<連載4>

この前河原でたき火をした時に、大合唱のカエルたちを前に、カタカムナ詠唱をかましたら、最初のうちはしきりに反応(=対向発生)していたのに、カタカムナが終わった瞬間、しばしそこに自然界のあたかも偶然のごとくの沈黙が広がった。

どうやら筆者よりも優れたる読者諸兄よ、いよいよ自由に「変化球」を投げる機会を与えてくれて本当にありがとう。ここで半生上、一つだけ確定している事実を申し上げるが、私はさもそれらしきものを投げるが決してそのものを投げることはできない「執ピッチャー」なのである。限りなく微妙にズレることによるリズム音痴。あくまで微妙にピントがズレたイチビリを無意識的に希求してしまうこと。私の「アナキズム」の原点は、この運動神経のズレにある。周囲おおよそと同じことは、絶えず「退屈」なのである。この克服のためには、完全に「フザケる」ことが前提になる。

ふざけることの問題点は、そうすることが、「真面目に考えることが真理を生む」と信じ切っているものたちにとっての嘲笑になることである。もし現状が笑わざるを得ないものであるならば、それを敢えて笑おうとしないものたちは「不真面目」なものたちである。

現行日本の教育を笑うことができない人は、精神に異常がある可能性が高い。

いかなる観点から見ても納得がいかない、完全に利権のためだけの教育行政。役人より企業の方が賢い人材を持つことが勝負の分かれ目だった。バカか?そんなケチな金を得したいならとっとと公務員なんて辞めて自分で起業すれば良かったんだよ。金だけが価値のところがいただけない。しかもその金はケチなものでたかが世間並みの年収の2倍である。稼ぐ方法なんていくらでもあるではないか。こうしてウンコつまって天下りだけが最終ゴールとなる。興味も能力もないくせに試験で受かっただけで権力機構中枢に居座るものたち。私は、この人たちは、もし「土下座」しなければ、「死刑」にされることを覚悟するべき代表的人たちである、と心よりの「冗談」で思う。やいテメエら、テメエら実は、「財産や社会的地位を第一義にして、魂の最大向上を後回しにしては絶対にいけない」との内容を伝えるプラトンの「ソクラテスの弁明」を読んだことがないのだろうが。このことはこれらの人が「アレテー」についても了解してないことを暗示する。軍人のアレテーは、「勇気」。庶民のアレテーは、「節制」。さて指導者のアレテーは?

指導者のアレテーとは、「知恵」なのである。知恵を実践しようとする心がなくなればもう社会的な指導的地位にはいられないのである。そして、我々にとって恐るべきことに、我々は「指導者」を現行試験システムでは「選出」できないのである。この社会学的論理的矛盾。民主主義がはらむ大いなる現実的矛盾。アナキズムが大いなる理念上の矛盾をはらんでいるからこそ観念的に成立しているというのは、的確な認識ではあるが、我々は常に当ブログにおいては、哲学的議論よりも、教育的観点を優先するべき宿命にある。哲学はナンセンスである。哲学は、「言語」を規定できないから、正確な表現ができないために芸術より一段次元が劣るのである。

未来を想定するという中心点において、教育は、文学より哲学より宗教より芸術より以上に現実的に現象する人間的営為の総体である。

つまり少なくとも、「芸術」を前提にしなければ「教育」は存在しない。

そして、芸術とは、精神と心情の対向発生の営みである

教育における一切の法則はここに「包摂」される。

ここにおいて、人間の成すべきことは、好奇心と感受性の向上のみである。

ソクラテスが語るのはまさにそういうことだろう。

2500年も早いとは、実にFresh!なことである。