2009-07-08 「意外」なこと
_ 「意外」なこと
人間が、「これが自分の限界である」と感じた時、人は自分の可能性を「制限」していることになる。
人間はやろうとすれば、空を翔ぶようなこと以外は、たいがいのことはできる。特に肉体ではない精神の向上においては。たとえ長い時間がかかっても。
しかし、もし、そのことを知らされないで、「人間には限界がある」と思い込まされた時、人は、面白いことが滅多に起こらないという習慣認識を持つ存在になる。つまり、「暇」と「労働」を識る。そしてこの後、何らかの大脳活動を行わないではいられない感受性を持つ人以外は、脳の活性化に無自覚になる。
縄文時代には労働は歓びであった。狩り、釣り、数え上げれば切りもないが、皆自然から穫って来る「オモロい遊び」だった。
遊びとは面白いからやること。労働とはつまらないけど我慢してやるものなのであった。食べるものがありさえすれば苦しまない縄文人にとって、我慢してやるべきことは何もなかった。
彼らには、「支配者」がなかった。かえって自ら、自らの「カミ」を「創出」する必要があったくらいである。それも自分が生きて行くために。
ダイアローグとは、己の中にもう一人の対話相手があることを確信して行うものである。
私たちは自らに問いかける。
―自分は何を選択して行動すべきか。
しかし、このことが良い結果をもたらすためには、その答えが「条件反射」的に瞬時に出るものでなくてはならない。
「思考」と「感受」の接点は、多かれ少なかれ、我々をクラクラさせる。
そこには、「正しい」、「正しくない」はない。
「好ましい」、「好ましくない」だけがある。
だからこそ我々はダマされる。
「不要」なものを「必要」なものと思い込まされる。
我々は、「限界」を忘れるために、「意外なこと」にもっと敏感になるべきである。
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