2009-07-04 焚火革命
_ 焚火革命
世にはつまらないことを聞く人がいる。
―あなたの夢は何ですか?
私の夢は、教育が本質を炙り出し、我が国の将来にとって大切なものを優先順位順に子どもたちに与えることである。だが、我が身の無能を知悉する私には、本気でそう思っていることが恥ずかしいから大きな声では口に出さないだけだ。
相変わらず不登校や学校をやめたいという相談が重っている。
彼らの全員が私の問いかけに首肯する。
―つまり、学校が面白くない?
これは、「冗談」抜きで、「事実」なのである。
「不登校」が不思議なのは、その少年たちのほとんどが善良でまともでユーモアも解するものたちであることである。
つまり、「まとも」な少年たちが、「学校はつまらない」というのである。
授業真面目に聞いて、提出物きちっと出して、暗記してテストで高得点する。実は本当はこれは、最低限、授業がオモロいときのみに成立することである。もしくはガンガンアタマが良くなっている「手応え」を感じるときである。他人より高得点することが目的の時ではない。
そんな経験は、学校でも塾でもほとんどあり得ない。「焚火」ならあり得過ぎるが。
今の子どもはつまらないと話を聞かないのである。
そもそもドーパミンが出る前に学ぶことは本質的ではない。
先ず好奇心がドーパミンを分泌させて、その上で学習態勢が整う。
教育合理を追求すれば、先ず子どもの好奇心をいかにして喚起するかが四谷大塚予習シリーズQ&A。
ピアジェに聞くまでもなく、教育とはオモロさを喚起することが前提なのである。
しかし、儒教主義が客観化できない人たちは、教育の仕事は「服従させる」ことだと信じて止まない。
「服従」は、共通価値の上に立った「尊敬」がなければ成立しない。ちょいと考えれば分る。幼稚園の先生でも知っている。「尊敬」より、「オモロさ」を喚起する方が実ははるかに容易いことである。
教師とは、伝えたい事柄を、面白がらせて体得させることが仕事だということが分らない。
相手は子どもなのである。
どうしてやり方を変えないで不登校や学校拒否を増やして行くことを黙認するのか私には全くの謎である。あまりにアタマが悪くなると、自分がこのままでは死にそうであることに気がつかないか、気がついてもそのままにすることになるらしい。教育を行う場にとって、生徒の「不登校」は、「自殺に等しい」と痛感するべきである。
完全危険領域。
最早、ある意味で、学校に通うことは意味がないのである。
あなたは、2回連続味が悪くてサービスが不愉快だったレストランに3回目行きますか?
ここまで言って分らないのはナンセンスである。
もうこれからの子どもたちは、本当に価値があることしか学ぼうとしなくなると思う。
この度、教育実現党を夢想した。今のところ綱領はただ一つ。
―小中学校の校庭で焚火をやらせろ!
だけである。
これをマニュフェストに入れた政党に投票しよう。
国政の場では、無用な官僚と国会議員を焚火にくべる運動を推進したい。