ブイネット教育相談事務所


2009-07-15

_ 独学の勧め

良く考えてみれば本来当然そうであるはずなのだが、最近たとえば、宮崎哲哉、内田樹、苫米地英人など、優れて知性的と評される人物のほとんどが独学的な人たちであることが確認される。独学者とは、自らの純粋な好奇心に基づいて、対象の解明に打ち込み、それによって知性を伸ばして行くものたちのことである。これは親に脅かされて無理矢理勉強することの反対である。

これは私が日頃口にしている「主体的な学習習慣」の成れの果てとも言える。主体的な学習習慣のもとでは、先ずテキスト(教科書)を手にすれば目次に目を通して、ざーっと最後まで読んでしまう。もし授業を受けるなら、予め次回にやるところを自分なりに考察し、それに関する書物を読み、授業では、教師が有能であろうが無能であろうが、自分なりのノートを作り、必要なことを覚えてしまうことに専念する。また、独学的な生徒は自分の学習を学校のペースに合わせない、中学英語なら中学英語を終わりまでできるだけ短期間にマスターしてしまうことを考える。ここで、重要な箇所を確認する相手が必要になるが、独学者は、その相手を見抜いて質問して教えを請う。しかし、真に有能な独学者は、複数の参考書の解説を読んでこれを解決する。この状態の子どもに能力のある家庭教師がつくと成績は飛躍的に向上する。もちろん、入試で勝つことが目的の集団の進学塾に通って競争に足場を移しても、周りの者の学習状況の観察や、文や単語の覚え方、それより英語という言語そのものへの構造を解き明かすことに夢中になる。

数学についても同様である。まず、暗算力。その一方で速く正確に式が書けるようにする。その上で中学3年分を一気に終わらせて、なおも興味が続くものは、高校大学の数学にまで手を伸ばす。自ら選ぶ「飛び級」。

独学するものは、困難な状況に陥った時、それを解決するために、自らの欠点の把握とその解決方法の着想に全力を集中する。この時、抽象と発想の両方の能力が発達することになる。

以上には、共通する「前提能力」があると思われる。それは、読みと書きと暗算、そして、抽象化能力と自立性判断力。

自然の中での発見の驚きと、手を使った試行錯誤やしつこい遊びの連続。

友人と群れて遊ぶこと、他者の観察と自分の客観化。

これらが充分であった時、10代前半のある日に「目覚め」が訪れる。

独学にはお金はかからなくとも暇は必要。そして、暇が情報と娯楽以上に好奇心に基づく行動に結びついていることが望ましい。

独学者は、20歳以降もずっと知的成長をし続ける。つまり、精神性が高まり続ける。

独学者は楽しいから学問する。