2009-07-02 教育について
_ 教育について
人が文章に書いたことがその人を規定するであろうか。
答えはNONである。書いたことはその人の部分であり、しかももそれは他者により恣意的に受け取られる。これは、宗教が、何らかの勘違いがなければ成立しないのと同様である。
長らくグレてフザケているうちに、自己本性と全く異なることに、だんだん本質的なことが書きたくなって来た。だがそれには、そんな本を出させる新たな出版社を見つけなければならない。
教育相談の仕事に疲れて、創作的な活動が精神的に苦痛になる。植物の成長に驚いて呆然としてばかりいるわけにも行くまい。
現代未来教育にとって、本質的なこととは何なのか。
私はそれについて答えることができるごくわずかの人間の一人であるはずだ。
しかし、教育について語ることは難しい。
それには、哲学、芸術、文学、歴史、人間学など数多くの領域について同時に自己の考察見解を持たねばならない。通常の人には無理である。学者にも政治家にも一般人にもそれは無理である。専門家と組織人には無理な対象である。
誠に拙いながらも「哲学」をし続ける私には、分不相応のことかもしれないが、教育について哲学することは、歴史を哲学すること以上に困難なことだと確認したい。歴史も教育も、「価値判断」を哲学的に規定できれば、それをもとにその客観化もできようが、そこでは、「芸術」の現象については意識的無意識的に捨象される危険性がある。
未来可能性の象徴に「芸術」があることは明らかで、「教育」とはその「実験」である。
価値は思考によっては体得されない。価値は追体験結果と感受性によって決定される。そこに、多かれ少なかれ、「ベクトル」を与えようとするのが「教育」だ。したがって「教育」は、既定価値を「過越」しようとする実験の場でもあることが暗示される。
現在の「体制」は未来にはない。未来には未来の「体制」がある。
子どもたちに本質的に与えるべきものが何であるのかを直裁に表明できない教育機関は全てニセモノである。
この国の教育で捨象されているものは何か?