ブイネット教育相談事務所


2005-07-14 『高校生のための哲学』

_ 言語が不全だから、哲学することはナンセンスであると言うのは、20世紀を代表する哲学者のヴィトゲンシュタインの見解だ。 彼の友人兼師であるバートランド・ラッセルは、その「集合論」の中で、「一つの集合を規定するにはその集合外の要素が必要だ」と指摘している。

10代の若者は、「何が正しいことか?」を探し求める。

しかし、実は、その問いかけに用いる言語も哲学も不完全なのだ。臨斎禅では、言葉で真理に迫ろうとするものを打ち据えて覚醒をもたらそうとする。

_ この世における最も尊い物である、真善美と言った究極のものは言語では求め得ない。真も善も美も、その反対のものがないと規定され得ない。もし我々が、神の存在の可否を問い、「神は、絶対に存在しない」と、強く主張すると、「君は何が存在していないと言うのだ。」と問われる。「神だ」と答えるとき、その質問は神の存在の可能性を前提になされていることが発覚してしまう。以上のことからも、言語は不完全なものであることが暗示される。言語では、存在の是非を問うことはできない。従ってそれを説くものは、言語以外の表現メソッドを求めていることになる。

_ 世界の宗教教典を読むと、そこには驚くべき人間真理の一致が見られる。キリスト教のアガペー。仏教の慈悲。儒教的仁愛。イスラムの喜捨。これらは、みなほぼ同一のことを語る。「善く生きなさい。そして成長した自己を他者のために役立てなさい。」これは人類普遍の真理であろう。

ソクラテスは語る。「財産や社会的地位を第一義にして、自己の魂の最高向上を目指さないものは、真の人間ではない」と。しかし、彼はこの発言により死刑を宣告される。現代と同様、当時のおおよその社会人が求めるものを否定したからだ。

_ 諸君の多くは、「なんのために勉強するのか?」という質問を発したことがあるだろう。それに対する一般的な答えは、「良い学歴を得て良い社会的地位を得て、他者から見劣りのしない人生を送るため」と言うものであろう。しかし、それは、古代からある聖者たちの見解とは全く異なるものなのである。彼等の見解からすれば、「自己向上の習慣を身につけ、他者のためになる自分を作るため」ということになるのだ。

_ 学問や芸術は、己を高めるためにある。そして、己を高めた先には、社会に役立つ仕事がある。社会に役立つ仕事は楽しい。なぜなら、他人が喜んでくれるから。それが全てである。他者に喜ばれないための知識や芸術表現などあり得ようか。

_ では、そういった尊いことを始めるきっかけは何なのであろうか。それは、意外なことに単に善良な心にあるのではなく、若者なら誰でも持ちうる純粋な心にあるのである。純粋な心とはどのように現れるか。それは純粋な好奇心によって現れる。純粋な好奇心とはどのように発現するか。それは、あるとき、突然、「これは、自分にとってどうしても素通りできない」という思いに立ち止まることによる。そして、そのことに没入することによる。そのことの妨げになるのが、財産や社会的地位と言った価値観なのである。

純粋な好奇心による追体験を繰返す「旅人」となったとき、人は、「聖者」であり、その境地は永遠に増大し続ける。

有名な仏典の一つである般若心経は、智慧を完成させるための真言を伝えるものである。その真言は、「往けるものよ、往けるものよ、彼岸に往けるものよ、彼岸に全く往けるものよ、悟りよ、幸あれ!」というものである。

純粋な好奇心から起るはずの人間として最善の試みは、脇目を振らず徹底的に求めることというのが正しいようだ。諸君はどう思われるか。