2006-05-01 教育関係者の無自覚
_ 新聞で国立大学教授の意見を読んでいつもと同じような気分を味わった。
「教育には教育の論理がある。教育の場を経営や効率の論理のみで語ることはできない」。私はこういうことは言う意味がないと思う。本稿の目的はこの人を攻撃するためのものではないので詳しくは書かないが、教育学者たちはしゃべればしゃべるほど,自らが生身の生徒たちの意見にじっくり耳を傾けたことがないことを露呈してしまう。彼らの収集する情報は、学校や塾組織から上がって来るデータであり、生徒たちから直接聞いたものではなくて、教師やマスコミ関係者から聞いたものばかりである。そしてこれら全体のおおよその共通点は、子供たちから見て「交信不能」な、正直なコミュニケーションを取れない大人の集団であることである。子供たちは、校長先生に絶対に本心を開かないであろう。すぐにはコトバが通じない。また相手にそんな時間があるわけがない。子供たちはまずほとんどの教師に本心を開かないであろう。多くの子供に取って教師は、「人前でまともにしゃべれず,まともに仕事ができない、頼りにならない大人」である。教育委員に逢えば,ほぼ間違いなくほとんどの子供が、「こりゃダメだ。典型的な話が通じない大人」と即断するだろう。新聞記者に逢えば、「いい人だけれど、どっか敏感でない優等生タイプ」と感じることが多いだろう。教科書会社の人を見れば、「言われたことをやっているフツーのサラリーマン」と思うだろう。
教育の問題の最大の根源は、教育関係者が子供とまともなコミュニケーションが取れないことである。こんなにも多くの子供たちが、「先生の言っていることが分からない。先生の教え方はつまらない。教科書は重いだけ。」と感じているのに、「教育には教育の論理があって、教育の結果はすぐに目に見えるものではないから、世間にいろいろなことを言われても困る」と反論する。
つまり、「当店は,決められただけの材料で決められただけのサービスしかできませんので、お客様のお口に合わなくても我慢していただくしかありません」と毎日行く一軒しかないレストランで言われるのと同じだ。
学力低下とか言うけどもね、最も大切なサービス、教師の指導能力の圧倒的な改善と意味のあるテキストの配備、これがまずそろわなくていかなることを行っても意味がない。これ以外の改革はお金の無駄である。しかし、それがどういうわけか諸般の事情でできないから、お金のかかる新しい組織や設備を作る。一方で親たちはいよいよ当てにならなくなった学校に背を向けて、安からぬ代金と引き換えに過剰サービス教育の塾体勢にはめられて、つまらない子育てをしてしまう。大切なのはテストで点を取ることではなく、将来役に立つ技能や知識や判断力を身につけることなのに、そのための環境整備には目を向けない。
教育学者や教育行政のトップにあるものの覚醒を祈りたい。もっとも、充分に目覚めているのに、わざとそうしているとのたもうのなら、それはそれで格別であるが。最早これ以上申し上げることは何もない。