2006-05-10 宮崎哲哉氏
_ 宮崎哲哉氏
たまには一日の終わりにあらかじめ何を書くのか決めずに書くのも良いだろう。
この季節の日本の気候に文句はない。熱くも寒くもない。雨も晴れも良い。
5月9日朝日夕刊で、宮崎哲弥氏の文章を読んだ。
彼は,保守思想の空疎化を指摘し、それが「散乱」することを指摘する。
私は驚く。この人は62年生まれで私よりも5歳も年下である。宮台氏と香山氏にも驚くが、この「現象学的な記述」には、「反論」の余地がない。
私は思う。この観点はどこからもたらせられるのか?
私は想像する。この男は、一般教育に完全に背を向けることを自ら選んだ私と同様の者だ。教育を受けるより、自ら読書し判断することの方が正しいことを確信できた者だ。彼と私はルーツも道程も異なる。しかし、認識する現状はきわめて近い。しかも、彼は、「朝日紙上」ゆえに、「左翼」ではなく、「右翼」に光を当ててみせる「芸人」なのである。
右翼とか左翼とかはない。そこには、「馬鹿」と「利口」があるだけである。「古い」と「古くない」があるだけである。
私は観察した。
左翼知識人も右翼知識人も、両方さぼった。
彼らの「経済」に背を向ける姿勢はある意味で正しい。
しかし、彼らは来るべき世代に向けての納得できる「思想」を提示し得なかった。
その理由の根本は、思想警察の統制が功を奏したことである。
しかし、今となっては、公案も「公務員」、しかも「天下り先」がきわめて少ないと来ては、官僚としての未来志向性もない。
ソ連崩壊と中共資本主義化で、左翼思想は非現実化した。世は、「競争原理」を選んだのである。
礼拝的儒教主義を標榜した結果、右翼思想は沈没した。皇室が「現代的保守」を選択したのは明らかである。
左翼も右翼も経済的に大変貧しい。世代交代でさえ危うい者が多い。
この対極が天下り官僚である。
しかしこれらはアタマが良くて、右翼と左翼の対立を隠れ蓑に自己の権益を確保している。
このことに気がつけない段階で、右翼と左翼は形骸化する自分たちに無自覚である印象を与える。
それにしても、宮崎氏の優れた文章は、いかにして体得されたものであろうか。この人は実は作家志望者だったのではないか。
何を書くか決めずに書いてもいつもと同じようなことになった。私も自分の「形骸化」に無自覚なのかもしれない。非常に悔しい。