2006-05-30 エリート主義
_ エリート主義
前回のも一種の冗談だが、日経で、西沢潤一氏のインタビューを読んだ。氏は、元東北大の学長で、世界を代表する半導体関係の研究・開発・発明者だ。我が国には少ない独創的な学者である。教育にも積極的に参加する人物だとは思っていたが、今度は首都圏大学東京の学長になっているとは知らなかった。
氏は、国力の源泉は国際的な競争力のある工業製品の開発だと述べ、にもかかわらず、我が国では独創的な研究者を支援する体勢が出来ていないと指摘する。さらには独創的な研究者を産み出すには旧制高校的なエリート主義の復活が必要であると言い、「16歳くらいで暗記中心の勉強から解放し、幅広い知識と理解・思考力を身につけさせる」と語る。
79歳である。その見識は若々しくて尊いが、やはり我が国の教育の構造的な問題点が分っておられないのではないか。
筆者は、旧制高校的な学校存在に肯定的である。その理由は、若者を無意味な勉強から解放し読書させる環境を整えたいからだ。しかし第二次大戦を挟んで、旧制高校はエリート主義の行き過ぎで形骸化し、結果的に志に関係なく東大などの最高学歴を持つことに国民的幻想価値を与え、現況の高学歴指向社会を作り、教育は空疎化された。多くは家から遠く離れた旧制高校に通うことが出来たものは、親にその財力のあるものが大半を占め、金のないものは地元に残って高等師範に通うというのが定番だった。16歳で大学合格資格を与えるとは、それを目指してさらに受験教育の低年齢化が求められることになるに決まっている。そしてそれには、子どもが小さいうちから金をかける力があるものだけが参入することになるのは明らかだ。結局少子化もさらに加速されよう。旧制高校合格を現在の親が求めるとどうなるか。まず、授業効率の悪い公立小学校に通わすことを出来るだけ避ける必要があるから、小学校入試が激化する。さらにその小学校は中学校と合体して、小中一貫校となり、その上で進学塾教育が加熱し、未来のエリート候補たちは今よりも過酷な少年時代を過ごすことになる。そうでなくても、中学受験はさらに前倒しで過酷なものになろう。なぜこの人は国立大学が自ら独創的な学生を採る試験制度を導入するべきだと語らないのか。なぜまず諸悪の根源のセンター試験の廃止を叫ばないのか。「エリート教育」の主張により、エリート以外のその他大勢が大きな損失を被ることをなぜ顧慮しないのか。だいいち過酷な詰め込み教育を受けた「エリート」が独創的な人材になる可能性が大きい可能性は限りなくない。そうではない。独創的な考え方が出来るものがたまたまエリートの中に含まれていたに過ぎないのではないのか。そしてそうではない学歴だけの無能力者の山の輩出が現在の教育問題の最も大きなところではないのか。だから、独創性のあるものを多く育てたければ、即座に、文科省の教育システム全体を見直し、同時に公立小学校の教員の質を向上させ、入試選抜基準を変えるべきということになるはずなのだ。それをいきなり「エリート主義」では、「日の丸」と言っているのや、「儒教教育」と言っているのと同じである。
良い老人は子ども時代の思い出を語るべきである。野山を走り回って友達と切磋琢磨した経験、それが彼らの独創性を育んだことを思い起こして欲しい。
こうした偉い人にこそ、「愛国心」という言葉の取り扱いで長々と議論して国民をしらけさせ、その間にすぐに着手するべき教育改革を先延ばしにして子どもや親を幻滅させる政治家たちを批判してもらいたい。