2006-05-16 友達効果
_ 友達効果
振り返れば、今月になってから完全に休みになった日が一度もない。その上、こうして毎日のようにブログも書いているし、大学の仕事の仕込みもしている。もちろん次の出版のための腹案も練っている。遊びが必要と思っても、遊ぶ時間がない。自著では、「男の子は遊ばせることが大切」とか言っておきながら、自分をリフレッシュすることは後手に回っている。焼き鳥屋での一杯も効果的でない。露天風呂サウナも、かえってそこにいる人たちを視て、我が国の暗い現状を思ってしまう。皆何かに囚われている。つまり今の自分と同じだ。
こりゃいよいよいかんというので、夕方OKをもらった友人宅を夜訪問すると、友人に「オマエはウヨクだ」とか完全に見当違いの罵声を浴びせかけられる。意見されることは常に感謝するべきことなので、議論すると、相手が夫婦喧嘩で機嫌が悪いことが分る。すると信じられないことだが、「人間が最も必要とすることは相手に存在を認められることだから、目の前の相手を認めないことは自分も認められないことだ。それには最低限きれいな言葉でしゃべろうとすることが必要だ。」と、普段の自分が全然守れていないことが口から出る。最近私は家族とともに食事をすることが苦痛である。なぜかと言うと、連れ合いが、「家族のための労働に感謝を期待するのは間違っている」と言ったことがどうしても受け入れられなくて、食事をしている家族を見ているとどうにも腹立たしさを抑えられなくなってしまうからである。私は自分が自由に遊ぶ暇もそのためのお金もない状態で働いている。やりたい放題の家族は、より良い生活は期待するが、私が疲れていることには一切無関心である。食卓での話題はバカの極みで、バカを自認する自分にすら到底受け入れられない。つまらない新聞よりもつまらない。「老化」と自認すればそれまでであるが、私は家族との手切れ金を払うために稼いでいるような錯覚を覚える。
で、家族のことを考えると精神衛生上悪いので、できるだけ関係ないようにする。
しかし、そのことは、先の私自身の言葉からすれば、家族の生身の人間としての存在を認めていないことになる。そして、それは明らかに人間的でない。せめてやや上品でまともな対応をするべきである。
喧嘩の仲裁は上手く行ったようだが、私にとって大きいのは以上の認識を得たことである。
やっぱり無理にでも友達に逢って正体をさらし合うべきなのか。そういえば最近生徒と話していて、もう一つ意外なことを力説する自分に気づいた。それは、
「友達は大切だよ。特に心をさらけ出し合うことができる友達は、いつまでも大切だよ。そしてそういう友達は、長年にわたる人間的な努力がなければ手に入らないんだ。」
家族を愛することを忘れかけた自分にはこのことを主張する資格はなかった。
友達に感謝する。