2005-06-01 教育学者とニート
_ 教育社会科学者で、お茶の水女子大学教授の耳塚寛明氏が、日経コラム「まなび再考」で、参議院調査会でフリータ−とニートについて参考人として発言した報告が出ている。
それによると、「相対的に低階層出身の高校生が、求人数激減の直撃を受け、さらに経済的理由などから学力と進学機会を奪われるという二重の機会喪失の末に、フリーターやニートになる。問題を個人化するのではなく、教育と就職支援の必要性を訴えた。」とある。
耳塚氏は、学力が家庭環境によって階層化していることを指摘している教育学者であるが、そんなことは調査して裏づけを取らなくても昔から当たり前のことである。そして、問われているのは、学力向上を可能とする教授法なのではなく、日本社会の競争の仕組み自体であるというのである。
私は耳塚氏の発言を聞いていると、わざわざ分かり切ったことは論証するが、本質的な切り込みの発言は自分に不利にならないように巧妙に避ける印象を禁じ得ない。これはほとんどの教育学者に共通の印象である。彼等のほとんどは実際に充分な期間教壇に立った経験もなく、教育の現状に、大学の教育学部などで学生の指導に当る自分達教育学者に巨大な責任があることに無自覚であることに寛容である。
ニートやフリータ−の問題は、親の経済的格差や学歴格差だけにあるのではない。
現場最前線で働く我々からすれば、親の学歴や経済力にかかわらず、やる気が失せたり社会不適応な習慣を抜けだせない子供達が沢山いる。その多くは、価値観を持たない親の無自覚と、本当のことを言えない学校環境や教師たちの不適切な対応と、それらを生み出す超劣悪で無自覚な教育行政システムの犠牲者である。そして、これを救済するには、私たち大人が、個人として、我が身を捨てるようなギリギリの限界努力が必要である。
「常識人」である耳塚氏は、システムのことのみを問題にしたがる。それはもちろん正しいが、教師の質の向上を図らなければ現場で喘ぐ子供達の救済に全く繋がらないことは明らかである。教育学者が、ここを巧妙に語らないのは、明らかに卑怯であると私は思う。耳塚氏だけとは限らない。教育学者が「相対的に」無能だからこそ、教育の現状が一向に改善されないと自覚して欲しいと思う。
「教育学者」を標榜するなら、我が国の将来を背負う子供達の心を深く理解し本当に良く働く教師達が多数輩出するシステムこそを提案せよ、と私は言いたい。