ブイネット教育相談事務所


2005-06-16 小山田二郎展

_ 東京駅のステーションギャラリーで、『小山田二郎作品展』を観た。

そう多くのものを観たわけではないが、私は日本人作家のシュルレアリスムの展覧会で失望することが多い。例外は滝口修造ぐらいである。

かといって、一品だけ見るときはそうではない。まとめて観るとなぜか馬鹿馬鹿しく感じることを禁じ得なくなってしまうのである。

日本のシュルレアリスムは、知性の不足を感じさせることが多い。なんでも「シュール」と自称してやれば良いものではないと思うことが良くある。

抽象アートに暗黙の中心意識が潜在するように、シュルレアリスムには、私たちの無意識世界における配置美追求の意識が前提になければならないと思う。

しかし、小山田は違った。この人は、世人を寄せつけないシュールの高みを獲得している類い稀なる日本人作家である。

タンギー、エルンスト、クレー、そしてミロとマグリット。小山田の絵には、それらの営為を了解した上での独自の表明が光る。特に水彩画はどれをとっても最高の領域に到達していると思う。髑髏、餓鬼、妖怪、変化、魑魅魍魎が、実に巧妙な水彩の滲みの中で有形無形に描かれる。それらの輪郭を現わすのに用いられる細線も、実に見事な筆致である。

どこかコミカルな要素を持つこれらの画像は、気がつくと絵の中の登場人物に「何をやっておるのかね?」と話しかけたい衝動を引き起こす。通常の絵だと、「何が書いてあるのか?」で止まるが、小山田の絵だと「キミタチ、いったい何でそんなことやっているの?」と話しかけたくなるから不思議である。

私はこういう経験をたまにする。今思い出すのはクレー、ミロの絵、そして、ポーランドの作家ココシュカの作った彫刻作品である。絵と話すのは鑑賞者として楽しい体験である。

先天性の病で常人を離れた顔を持ったことにより、製作に没頭するときの感情移入が高度に昇華し、この作家は、絵の中に魂を注入することに自ずと成功しているようである。

同期の画家たちが競って手に入れたがったといわれるのが良く納得できる作品群であった。