2006-04-29 「認められること」の真理
_ およそ世間の人間で、老若男女を問わず、「認められたい」と思わぬものはない。
財産も高学歴も人に認められたいからこそ求めるものだ。
本来の自分ではない偽装した自分が認められたいというたぐいは人語に落ちる。
認められたいという願望は自己のありのままを認められたいと思うのが普通であろう。
そこで、その認められ方のことである。
ちょっとの努力で、「今の自分」を認められたいのか、充分な努力で「それまでの自分以上である自分」を認められたいのか。
もし前者を望むのであれば、その人には認められる「資格」がない。「認める」とはあくまでその可能性に他ならないから、既成の事実を認められたいというのは一枚劣った願望である。教師である私は、「結果」よりその「可能性」を重視する。
充分な努力をするものがそれを認められたいと思うことは真っ当である。
どのような場合でも,それまで以上にできていることが「価値」なのである。そして、それは日常生活に普在する。「愚か」とは、努力しないことである。
報酬を上回る努力を行うもの、そのものの未来は輝いている。
自分が認められるべき存在であると確信できるとき、そのものは認められることを必要としない。自己完結している。認められる必要がない。しかし、そういうものをこそ世間は評価する。
しかしなおも、認められるということの快感は誰にでもある。
いささか逆説的ではあるが、教育とは成長を認めてやることである。
畢竟、今の自分を認めてもらいたいと願うのは「甘え」、これからの自分を認めて欲しいと願うのは「サトリ」である。
このことを了解して鋭意し続けるものは、自ずと「聖者」の領域に近づく。
与えられた個体内での最大限の成長、これこそが倫理的な真であろう。
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