ブイネット教育相談事務所


2006-04-20 小学6年男子

_ 小学六年男子

例年のことではあるが、小学6年生の男子生徒たちが担任教諭の言動が理解できないとの苦情が相次ぐ。

拙著新刊本『男の子を伸ばす母親は,ここが違う』(扶桑社刊)でも述べたが、この問題は、知的に成熟し始めた男子生徒にとって、論理的に理解できない言動が受け入れがたいことから起こる。

男は理屈が通った言動をしなければ、仲間内で受け入れられない。低学年の間は、腕力が強ければ論理矛盾も容認されるが、高学年に至ると、論理性のない言論は集団の中でバカにされて権力を失う。このことの知見がないのが愚かな女性教諭である。

彼女たちは、昔ながらの教師的発想から全く抜け出せずに、まるで刑務所同様の「支配」が正しいと信じて疑わない。この結果が、男の子たちの知的能力の伸長の害になっていることに自覚的でない。私は、これを教育上の問題だと指摘しているのだ。「男性上位」なんて言っていない。女性優位を前提にしてこれを発言しているのだ。

どうして女の人たちは、男性が最も大切に思っている論理性より、従属性を優先するのか。男性の社会では、論理性を逸脱すれば、リーダーとしての資格は自ずと失われる。我々にとって、論理的整合性が前提になってこそ,「従属」が可能になる。

母親が馬鹿なことは場合によっては受け入れざるを得ない。全ての子供は母親を愛する。しかし学校の先生が馬鹿なことを言えば、一瞬にして受け入れられない存在になる。これは夫婦間でも同じ。相手が論理的ではないことを押し通せば、夫は「バカ」と捉えてまともな対処を諦める。でも、大人と子供の場合は違う。

もう覚えた漢字なのに、全ての子供にノート1頁に同じ漢字を書き続けることを要求する。こんなことは男の子には受け入れられない。逆に、早く課題が終わったので、「次に何をすれば良いか」と尋ねる子供に、「ボーッとでもしていれば」と答える。私はこの瞬間に教師を辞めるのが良いと思うが皆さんはどう思われるか。この先生は、「では、こんな問題があるけど挑戦してみれば」ということを思いつくことが面倒くさいので、適当に答えていると、利口な男子には分かる。さらに男子は、自分がさぼることは容認して、他者に服従を期待するのはナンセンスだと思う。これはほとんど「男の本能」なので、この先生は、最早「先生」とは見なされない。「バカな女」と認識される。「可愛いところがある女」とは認識されない。まだ大人に至らぬ子供たちには、いくら教えても儒教思想なんて分からない。「いけない」なんて言っても通じない。なんとなれば、すでに男たちの間では、単なる「バカ」とみなされることは、その集団内で限りなく存在理由が軽くなることを意味するからである。これは,軍隊でも、暴走族でも、エリート校でも同じである。これは「いじめ」ではない。「価値判断」である。いじめるのは余計なことである。無意味な行動である。いじめのような下らないことをすれば、自分も馬鹿になってしまう。これが男の世界である。だからこそ,ここに「慈悲」の概念が生まれるのである。「アンタかてアホ、ワシかてアホ、ほな楽しく遊びまひょ」となる。まさに男の友情の大半はここにある。残り半分は,どうしようもない人間的なオモロさである。

十年以上教師をして、男の子のこの反応に気がつかない人は理解しがたい。大学の教育学部がバカだと言いたい。

「氷オニはいけない。なぜなら捕まった人がじっとしていて運動していないから。」

男の子にとっては、「では、なぜ野球は禁止されないのか」、「それどころか授業中じっとしていることがなぜ要求されるのか」となる。こまっしゃくれたやつは、「サッカーのゴールキーパーはイケないんだ」と来る。

我々男性にとって、論理的逸脱を完全容認できるのは、その相手の女性が「愛人」であるときだけである。なんとなれば、恋愛感情は論理性を逸脱したものだからである。したがって、その女性に対する愛情がない場合には、論理矛盾は、究極的には「存在対象外」の認識になる。子供たちは母親を愛するからこそ、その論理矛盾を受け入れているのである。そして、そのひどい論理矛盾を受け入れる子供の論理思考が停滞するのは当然である。賢い母親とは子供に対して愚かな対応をしない母親である。

自分の子供の論理思考の発達を自ら阻害しつつ、なおかつ過度に受験勉強を強要する時、その女親は、言わば「時限爆弾」を抱えたことになる。

しかし、ここで、男の筆者が女の「論理」を分かっているかと訊かれると、「分かっている」とはとても言いがたいという論理矛盾が起こるが。まあ話は子供たちの教育の場でのことよ。許されよ。女性読者にはごめんなさい。それにしてもこのブログの読者に女性なんているのかな。

「好き」と「分かった」は別もの。ここでは、これは好奇心と理解の関係ではなく、「気分がいい」と「態度が良い」の問題。気分に関しては究極、サービスの受け手が優先。てな理論で、頭のカタい母親や女性教師を説得できるか。やはりこれが通らぬ相手を男は「バカ」として逃げるのである。「逃げる」のは、個人の勝手なので、これは「趣味」の問題。だんだん養老タケシ風になって来たが、とどのつまり、私が言いたいのは、男の子は、受け入れ態勢が前提にないと、実際行動できないということ。先の「氷オニ」の件では、男子は昼休みシラケて外に出ず教室にいたという。この「教育的論理矛盾」!教師は明くる日から氷オニを「解除」したという。またしても、この「解除することの論理矛盾」!せめて、「先生の考えが至らなかった」と言えば、どんなにか子供に好かれただろうに。この先生は数学教育が何のためにあるのか勉強したのだろうか。拙著献呈したいが、もちろんしない。「芸人」が現場に出ることはタブーである。責任は全て現場を管理する側にある。従業員に知恵を与えぬ管理者、これはいったい何のために存在するのであろうか。この答えをダイアローグすると、あまりにつまらない結果が出そうなので今夜はここで辞めることにする。この続きは当分書かない。やい、私を恐れる馬鹿な出版社どもよ。お前たちも同罪だぞ。私は、一市民または一親として、子供たちに最善の教育を提供することが大人の仕事ではないかと言っているのだぞ。

やっぱり止める。今日はなぜか書き過ぎる。

いろいろなことがあった一日であった。