2006-04-14 国語技術の有効性
_ 作家とはそもそもその活動だけで生活できない者たちであった。活動の連続にはタマが必要である。好きな女との生活もある。それには労働をしなければならない。
ところで、そこで今の世の中、あたりを見回せば、成熟した社会の住人はいよいよ教育熱心である。しかも、国語力の地盤沈下は甚だしいと来ている。
若者よ,近い将来書けて読めることだけで生活できる(裕福とは限らないが、その可能性もある)時代が必ず来る。国語が出来るもの、古典文学の素晴らしさを味わうことが出来るもの、諸君は将来大変格好良い存在なのである。文章が書ける者は、文学部に進んで、国語指導者になり、おまけにあわよくば作家になるコースを積極的に選んで欲しい。もし作家になれなくとも後悔することはほとんどないと思う。文化人であることは、裕福な者たちが最終的に求めることである。そして、その教養は、読書の連続においてしか得られない。若者よ国語指導者を目指せ。
塾の国語教師たちも、積極的に自らの国語力を鍛え、塾幹部に,現状の授業では詐欺同然であることが早晩バレることを文章で申し入れて授業をもっと意味のあるものに変えさせて欲しい。これは意味のない国語の授業に苦しむ子供たちを救うためのことだ。
言語において、解釈と直感のどちらが優れるか、と言えば、答えは決まっている。我々は理性の前に感覚を持って言葉を受け入れる。従って、感性を増強するためには、解釈(読解)よりも、自己表現や日常の会話力が優先されることは自明である。そして、この力を培うには、名文音読了解以上のものがないことは明らかであろう。この点で国語の教科書は全くダメである。私が検定官であれば全てボツにする。
真に国語が出来るとは、自ら問いかけること,発信すること、表現することが出来ることである。これらは、本来,教室で教えられるものではなく、個人が勝手に自発的に身につける能力なのである。
今回は、いつにまもして文章が粗くて申し訳ない。多少の論理矛盾は許されて、私の内容とメッセージを受け取っていただきたい。
先日初めて大学で授業をした。生徒諸君が満足するよう最大限の努力をし、何か問題が起これば、潔く「退学」しようと思った。つまり、1年で止める覚悟をした。