2006-04-21 早川俊二展
_ 神田錦町のアートスクエア神田ギャラリーで、パリ在住の画家、早川俊二展を見た。
4月11日からであるが、驚くべきことに出展30余り中、唯一つを残して全て売り切りである。その一つの猫の絵も、まるで飼い主を待っているかのように魅力的である。
相変わらず自慢で嫌みと言われるが、私は良いものが並んだ中で最も良いものを選ぶ名人である。
その作品は、出品主要作の500万円の大作の隣にましました。価格は10号で約100万。安くはない。しかしこれは「値段がつかない」この世でたった一つの絵だった。白いカップと褐色の果物と薄茶のエスカルゴ。何と言うほれぼれしい感覚だろう。滅多にない完全に覚醒し切ったときの自分の内部に見い出されるあの瑞々しい感覚。生きていることの悦び。こんなことは滅多に味わえるものではない。セザンヌ静物画と同質の次元にある。私は日本人がこれを描いたことを心から誇りに感じる。
画廊主の伊藤厚美氏によれば、「この絵は、モランディのファンである人が、それ以上と言ってお買い上げになった」とのことである。この絵を買った人が羨ましいことこの上ない。
他の作品も単なる「高水準」を超える。今、この作家は「天才」の境地を垣間みていると言えるだろう。
作家に語りかける。
「すごいですね。最早どうやって描いているのか誰にも分からないでしょう」。
ニヤリと了解の笑みを浮かべて画伯は応える。
「そうです。誰にも教えません」。
やはり意外と単純なことなのである。
私には分かる気がする。もちろん完全ではないが。
画家は絵の具におそらく灰に関する何かを混入した。これは「補色」として作用する。
次にそれを先に背景を決める。その上でオブジェを映していく。もちろんほぼ同時と言っても構わない。通常オブジェを描いてその外に陰影をつけて浮かび上がらせる。しかしこの画家のやっていることは、あたかも背景の色と調和するようにオブジェとの境界を調整していくことだ。
私は、ラファエロの例外はあっても、優れた画家は何らかの面で知性的であることが多いと思う。この人は試行錯誤だけでなく深く考えてその効果を産み出しているのである。私はその営為に感動を覚える。
画家を賞賛すると、横から画廊主が言う。
「まだまだ3合目ですよ。これからが本当の勝負です。」
私にはこのメッセージの深い深い意味が痛いほど分かる。
やはり一人の天才は最大の理解者が現れることによって起こるのだ。
その第一は、まぎれもなく早川夫人であろう。彼女は天才を分かる天才的感受性を持った女性に違いない。彼らには子供が要らない。彼らの子供は早川氏の作品群である。
私も自分を「3合目以下」と思うと妙に楽になった気がした。本当は2合で酔っぱらっちまうが、峰を指して登ろうという決意は常に重要である。
考えてみれば、何百年も先に現象しようとするのが芸術的営為の本質である。早川は、これまでに習得した技法を用いて、新たなる対象を選んでいかなければならない。美人中の美人。バルチュスのなせなかった、生温い曖昧さの残る美人ではない、何かをこの作家は達成しそうな気がする。その時に余計なのが「8合目」の満足なのである。
末尾ながら、早川氏を見いだして、繰り返しその仕事についての文章を書き、多くの人に紹介することを画廊の仕事の本質として貫いた伊藤氏は、これからの画商の鏡と言える。早川氏の真の「パトロン」の代表、それは貴兄だ。早川氏の作品は、伊藤氏の文学的哲学的教養の背景に浮かび上がったと言える。これは「デカルト的自覚」と呼んでも良いかもしれない。とまれ、お二方に心より祝福申し上げる。貴兄らは素晴らしい輝くべき存在だ。