ブイネット教育相談事務所


2006-04-12 国語詐欺

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国語が出来るとはどういうことなのかを明瞭に示さずに、教育営業するものたちはほとんど皆「詐欺」である。

そもそも現状の公立学校の先生たちには,ほとんどその自覚もノウハウもないから、この苦言は金を取って生徒を集める受験機関に向けてのものであると言っても良いだろう。

サピも日能研も早稲アカもタコである。そこには国語問題作成と解答添削に摩耗し切った教師たちがあるのみである。

彼らは、国語が出来るとはどういうことなのかを良く了解しない。分からないから、自分たちで勝手に決めた拙い「尺度」で、「おおよそこういうものであろう」と投げつける。しかも塾という営業形態に当てはまるように改変して。

しかし、これは間違っている。何となれば、彼らは本当に国語が出来るようにはならなかったからこそ、塾教師をしているのではないか。国文科出身で本当に優れたものが教師になるだろうか。

国文科で「優れたもの=一定の古典文学了解者」は、研究者か編集者になる。教師になるのは、それが叶わず、ただ試験のための暗記学習に走ったものたちが過半である。彼らは、空が「開いて」いるものであることを知らない。「空」は有限なものだと思っている。だいいちそもそも優秀な者は、国文科に進学しない。むしろ国語が出来る者は法学部に集まっている。これは困ったことだ。そもそも本当に国語が出来る者は文学部に集まって良い教師になってもらいたい。しかし,教師は「清職」であり、貧しい。そして、金に縁のある仕事をする弁護士や上級銀行員は裕福である。

若者よ。これからは、本が読めて文章がすらすら書ければ何らかの形で結構食える時代が必ず来る。それどころかここには教職と異なり、作家になって「卒業」する可能性もある。大学の教師たちが出版活動に邁進して本業を忘れるかのような姿は諸君も良く目にしていることだろう。

昔は作家を目指して教師になって終わるのが通例であった。作家で飯を食うなんて夢の話である。我が国で初めて家族を養う収入を得た作家と言われる滝沢馬琴ですら、日記を見れば金のやりくりに悪戦苦闘している姿が浮かび上がる。 

ところが今の時代は逆である。逆コースがいい。稼業と活動が別物であるのことは自明である。ゆえに先ずすでに自ら培った文章力と読書力を次世代に伝えることを稼業とし、そこで得た収入で本を買い,生活をし,自己精進して、世代交代もし、やがてその表現活動が世間に知られるようになるというコースを目指すのが良い。これは松尾芭蕉のやり方と同じである。漱石もそうだった。鴎外が作家で飯を食っていたか。開高健も山口瞳も皆そうだった。セリーヌは医者だった。

作家活動をするものを「詐欺」と呼ぶことは出来ない。